2011年御翼11月号その4

童謡「赤とんぼ」

  

 童謡「赤とんぼ」の詞を書いた三木露風(明治22年〜昭和39年)は、母を失った子だった。露風は明治22年(1889)、兵庫県の裕福な家に生まれたが、父親が遊び人で家に寄りつかず、愛想を尽かした母親は、露風が6歳のときに離婚、弟だけを連れて実家へ帰ってしまう。露風は一人、祖父に預けられて育つ。中学を中退後、上京し、早稲田大学や慶応義塾大学で学び、北海道のトラピスト修道院に国語の講師として赴任、露風は敷地内で妻と共に暮らした。彼は当時、既に「廃園」などの作品で、北原白秋らと共に詩人として賞賛され活躍していた。大正10年、露風は修道院の庭に飛ぶトンボの群れを見て、「赤とんぼ」の詞を書き、児童雑誌に発表、その翌年の1922年(大正11年)、彼はトラピスト修道院で洗礼を受ける。
 童謡「赤とんぼ」は、修道院での暮らしの中で生まれた。「ある日、午後4時頃に窓の外を見て、ふと眼についたのは、赤とんぼであった。静かな空気と光の中に竿の先にじっととまっているのであった。私はそれを見ていた」と露風は昭和34年「森林商法」に記している。修道院で赤とんぼを見た露風は、ある光景を思い出す。「家で頼んだ子守娘がいた。その娘が、私を負うていた。広場に、赤とんぼが飛んでいた」と。それが一節の「夕焼け小焼けのあかとんぼ、負われて見たのは いつの日か」である。二節「山の畑の 桑の実を 小籠につんだは まぼろしか」は、優しかった母との思い出だと、後に露風は語っている。三節「十五で姐(ねえ)やは 嫁に行き お里のたよりも たえはてた」とあるが、「姐(ねえ)や」とは、母親の代わりに世話をしてくれた子守娘のこと、「お里」は母親が帰った鳥取の実家のことだと言われている。四節「夕やけ小やけの赤とんぼ、とまっているよ 竿の先」は、露風が12歳のときに作った俳句である。その時の露風は、独り取り残された自分と、ぽつんと竿の先に止まっている赤とんぼとを重ねたのであろう。
 しかし、洗礼を受ける頃に、露風は再び赤とんぼが竿の先にとまっているのを見る。「静かな空気と光の中に竿の先にじっととまっているのであった。私はそれを見ていた」と書いていることから、この四節には、キリストの救いによる魂の平安が表わされていると言われている。三木露風は、信仰に基づく詩集のほかに、随筆『修道院生活』や『日本カトリック教史』などを著し、バチカンからキリスト教聖騎士の称号を授与され、1963年、紫綬(しじゅ)褒章(ほうしょう)を受章している。
 修道院での露風は、夕焼けの中を飛ぶトンボを見て、自己憐憫に陥らず、神の子イエスの十字架によって、全ての災い、呪いから救ってくださる恵みを覚え、平安な思いで詩を結んでいる。そして、「赤とんぼ」を作曲した山田耕作は、13歳のときに洗礼を受けており、幼い頃は、英語で讃美歌を覚え、歌っていた。そんな二人の生み出した童謡「赤とんぼ」は、神の恵みを賛美している。

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